Monologue

日々感じたことをコツコツと。

さくらははらりと散るのか

さくらが咲く季節。むしろもう少しづつ花びらを散らす時期かもしれない。

今年のさくらは雨が降らなかったこともあり、ずいぶん長く私たちを楽しませてくれている気がする。さくらを見ると目を細め、その後おもわずニコッとしてしまう。そんな時間が長くあるなんて、あぁ幸せだわ、と思う。

さくらの蕾がぷくっとしているとき、満開に咲きほこるとき、散り始めるとき、どのさくらのシーンが好きだろうか。わたしは散り始めるときが一番好き。例えるなら、満開の時は10代のぴっちぴちの女子高生のようで、散り際は30代の殻を破る女性を思わせる。さくらは花を散らすとき、決してぼとりとフサごと落とすことはしない。あくまで花びらを一枚ずつ、はらり、はらりと落としてゆく。30代の女性ってきっと少しづつ経験を重ねて、見た目の美しさや、若さ、という世間の女子の縛りから解放されていく、そんな時なのではないだろうか。

花びらが散る姿はまるで世の美しさを脱ぎ捨てる女性のよう。脱ぎ捨てる中で生まれる新芽はその人それぞれの新しい美しさを感じさせる。

今まで信じていた美しさを脱ぎ捨てるのはまったくもって簡単なものではない。はたと滑稽に見えてくる人もいれば、自分の美しさをそこに見出し固執する人もいる。もしかしたらさくらも同じで、潔く花びらを解放する木もいれば、ジタバタする木もいるのかもしれない。美しさなんて人それぞれだから、それでもいいと思う。ただ、わたしは全員が愛する美しさより、自分にある自分の美しさを見つけてあげたい。自分で自分を愛してあげたい。

花びらははらりと散るのか。

ぼとりとも、ひらりともわたしは違うと思う。

はらりだろう。

そんなに簡単に注目されないような方法で、自分の美しさを脱ぎ捨てることなんてできない。ぼとりなんて捨てられないし、ひらりなんて可愛く振りまけない。花びらを散らす姿まで周りを魅了し、トリコにさせる必要があるのだ。若さや美貌ってそれだけ女の子の一時代において大切な時代。もう少し見たいのに!と周りに思わせながら、しおれる前に美しいまま次のステージに進む。しかも色っぽいはらりという散り方で。

わたしもはらりと若さから脱皮できるだろうか。

 

わたしの周りの雪見だいふく

「おとーさーん!今なにしてればいいのー?」

会社での出来事。春休みに入った子供たちが会社に来て、暇を持て余したのであろう、そう言った。

お父さんは答える。
「どうしたの?遊びたいの?」

本当はお父さんに構って欲しかっただけかもしれない。でも、小学校に上がった彼は少し大人になったから素直に言葉にできないのだ。

あぁ、なんてかわいいんだろうと素直に思う。

人の役割は点滅している。

糸井さんの本で見た言葉だ。

人は時にお母さんで、時に上司で、妻、後輩だったりもする。

この時のお父さんは一方で職場の同僚。いつも物腰の柔らかい人なので大きなギャップはないものの、それでも子どもに話しかける姿は父の威厳を柔らかく雪見だいふくの皮で包んだようなそんな様子だった。

いつも知っている友達も、もしかしたらこんな風に別の場所では別の顔を見せるのかもしれない。人の良さって自分のフィルターで見た世界だけで判断するのはもったいないかも。そんな風に思った。

人は単純で、社会的なたてつけや交友関係などで人の見方を大きく歪めてしまう。この人の友達ならきっといい人、この会社の人ならきっとしっかりしてる。もっと言えば、この人と一緒にいる自分は周りからどう見られているのだろう?そんなことまで。

大人になればなるほどまっさらな状態で人のことを見るのは難しい。まっさらは難しくても、この人の奥には点滅してる別の顔がある。そんな風に思えるだけで、もっと自分が好きなその人に出会えるかもしれない。

 

スタイルを持つということ

ずいぶんご無沙汰になってしまった。今日は自分の考えでしっくり来たことがあったから書き記しておきたいなと思う。

2年くらい前から、自分が好きだと思う人は自分の軸がしっかりしてる人な気がする。と思っていた。うまく言葉にできないけれど、ポリシーがある人とかバレない人とか。

当然、そんな人に憧れているわけだから、自分はブレブレなわけで、毎日毎日「自分の好きなことって何?」と自問自答を繰り返してきた。自分の好きなことなんてふわふわと浮き沈みしていて、元来飽き性な私。自信を持って好きと言えるものなどなく、中途半端に知識のあるものばかり。本当に好きな人から比べれば、モドキと言われてしまうレベルである。

ただ、1つだけがむしゃらにインターンをしていた頃にわかっていたことがある。それは、背伸びは短い間しかできないということ。キャリアウーマンも、ファッショニスタも少しの間なら演じることができる。でも、それは自分ではなく自分が演じている誰かだから長くは続かない。だって気持ちがわからないのだから。コピーはあくまでコピーなのだ。自分は自分の中から湧き上がったものにしか長くはなれないのだ。

むしろこれが分かっていたからこそ、中途半端な好きは中途半端な肩入れしかできないからダメと思っていたのかもしれない。でも、発想を変えてみた。要は憧れがあるけどそれになりきれない代表が私。オシャレや丁寧な暮らし、ステキなおうち…なりたい姿はありありと想像できるけど、めんどくさがり屋で中途半端になる。視点を変えてみれば楽して丁寧に暮らしたい人という1つの特性なのである。これはこれでいいじゃないか。

今日、自分がなりたい人の共通点は「スタイル」を持ってる人達だと気がついた。自分の軸がしっかりしていても、それがスタイルになってない人もいてそこには惹かれない状況を今までうまく言葉にできなかった。最近職場の変化や今日は食のイベントで若手で活躍するシェフの話を聞いたのだけれど、両者の人に共通するのはスタイルがあることだと思う。自分の好き嫌いが明確で、その背景も自分自身の言葉でシンプルに語れる人たちである。自分の軸を持っていることと、スタイルを持っていることは近しいようで違う。順番として自分の軸が明確になって、それが表面化してきてスタイルとしてまとう空気を異質なものに変えていく。同じような自分軸があってもスタイルはその人のポリシー以外の好きなものや嫌いなもの、性格などが反映されるから、一人一人違う。わたしは楽して丁寧に暮らす人というスタイルを自分流に醸せるようになりたい。

早く若手シェフたちのように自分の表現がスタイルになるといいな。

夜明け前のご褒美

夜明け前の空を見上げたことはあるだろうか。私は週に一度仕事の都合で朝4時に起きて、5時には家を出る日がある。朝はゆっくり寝ていたい…早起きでかわいそう…と思う人も居るだろうが、実はわたしは一週間でこの日が一番好きなのである。

まず、この日は朝起きると大好きな建築の番組がやっている。わたしはこの番組が大好き。昔から素敵なお家を見つけるのが好きで、中はどうなっているのだろうか、覗かせてほしいな。とお家をじっくり観察する子供だった。この番組は、実際に生活している家族の家へ訪問し、デザインが素敵なお宅を隅々拝見させていただく。まさしく私が幼き頃がやりたい!と思っていたことを実現している番組である。特にクローゼットや収納、家主がこだわったポイントなどマイナーだけどカスタマイズされている場所が見える回はテンションがあがる。いつかはこんな素敵なお家に住みたいなあと妄想を膨らませながら、ホット甘酒豆乳をすする時間は至福の時である。

次に大好きな料理の番組が始まる。これも、気取った料理番組ではなく、あくまで普段の生活の中で実践できそうな家庭的な料理が多い。普段作り慣れている料理でも、あー!こんな一手間で味が変わるのか!と、トイレを我慢するほどに真剣に見ている。さらにこの時間に見た料理は大概別の時間に再現している。とにかく真剣に見ているのである。私が料理番組が好きな理由は単に食べることが好き、作ることが好きということもあるが、料理をしている過程を見るのが好きというのが一番だと思う。少しの手間暇を目にした後に食べる料理は美味しさも一入で、見た目や味以上の感情を私に抱かせる。この真剣に料理番組を見る時間もまた至福の時なのである。

この番組が終わるとそろそろ外出の時間である。朝方は冷えるので完全防備で外へ繰り出す。しばらく歩くと、いつも目の前に現れるのは煌々と輝く月。夜明け前の静まり返った住宅街に在る月は、いつもひっそりと輝くその姿からは想像できないくらい夜空の主役になっている。建物や道路に目があるのなら、そこにあるすべての目線を奪っているといっても過言ではないが、それでいてどこか控えめでかぐや姫を思わせる月なのである。いつもなら気にも留めない存在なのに、あなたって実はそんなにも美しかったのね。と驚かされれる。特にこの時期は少しづつ日が長くなって、夜明けの時間が早まっているので、そらが藍色に近い色になっていて、漆黒とはまたちがう上品さを感じるのである。誰もいない道路でこの美しき月を独り占めする時間は、心底贅沢で、寒さなど忘れてしまう。毎日4時起きでもいいと思うほどだ。

こんな些細な、人には理解されないであろう、わたしだけの贅沢が夜明け前の時間には詰まっている。ちょっと真面目な話をすれば、最近大人になってこういう自分だけの楽しみを見つけることが上手になったと思う。こういう言葉にし辛いワクワクが自分の感情をコントロールし、ご機嫌を生み出す。自分がご機嫌だと人にもご機嫌を分けてあげられる。自分のご機嫌を作るのは他人じゃなくて自分。いろんな本にそんなようなことが書いてあったけど、やっと自分なりの方法を見つけて、実体験から感じられるようになった気がする。少し気分が晴れない日は、あえて4時に起きて美しいものをただ美しいと感じる。そんな時間を持つことは私にとってこれからもご褒美タイムになるだろう。細切れの時間でも自分だけのご褒美タイム、もっと見つけていきたいな。

奥山くんから学んだこと

奥山由之さんが好きだ。

彼は私と歳の変わらない写真家で、ファッション誌や企業広告、アーティストのジャケット写真まで、幅広く活躍している。もともとは、ZOOZOOZOOというラジオのパーソナリティを勤めていたことから彼を知ったのだが、ラジオを通して人柄に興味を持ち、実際に写真を見て、ファンになった。芸術って素敵とは思うけれど、正直私は写真や美術について語れるほど、造詣は深くない。なんかいいなといった感覚レベルでしか話ができず、人の解説を聞くとそんな視点で人は作品を見ているのかと関心することもしばしばである。

先日、彼の最新の写真集のトークイベントに参加してきた。来場している人は年齢層もさまざまで皆、芸術が好きそうな人ばかり。トークテーマも写真集を一緒に作り上げたアートディレクターの葛西氏との対談で、奥山くんのファンだけでなく葛西さんのファンもいたのだろうと思う。

正直、今回の写真集は写真展に行った際も理解するのが難しい作品だった。だからこそ、奥山くんの口でどんな背景があってこの作品を撮ったのか聞いてみたいと思ったのだ。実際に話を聞くと、そんな背景でこの構成にしたのかと納得する部分があり、思わず写真集を購入しサインまでしてもらったのはトークイベントにまんまと乗せられていると言われても仕方ない。

本当は写真集の物語についても語りたいところだが、今回は素直に学んで感動したことを書き留めておきたい。

一つ目は、一つの写真集にはその写真家とそれに関わる人々のこだわりが痛々しいほどに詰まっているという発見だ。今まで写真集を見る時、注目しているのはその写真自身でその本の作りや、写真の配置、フォント、文字の間隔、髪の質感なんてものに目を向けたことはなかった。でも今回のトークショーは、相手が葛西さんだったこともあり、「本」に対するこだわりがたくさん語られていく。写真一枚一枚にも、もちろん物語はあるが、それを組み合わせることで新しいメッセージや物語を紡ぎだしているといった趣旨だ。写真集の写真を、本に出てくる主人公がよく行く喫茶店やよく聞く音楽を描写するように「素材」として活用していく本の作り方。「ほう。そんな作り方があるのか!」と素直に驚いた。この歳になってここまで予想していなかった学びに出会うことは少なく、一冊一冊、本のディテールがどうしてこの形式なのかという視点からもう一度色々なものを見てみたい!と興奮した瞬間だった。

これは展覧会や写真展でも同じで、奥山くんは人が作品を見るテンポまでコントロールしようとしていた。凄まじいこだわりである。どんなふうに写真を見て欲しいのか?ただ作品を提示するのではなく、見方にまでこだわり尽くす姿勢はとてもかっこいい。これは自分の仕事でも応用できることで、自分が受け取り手になった時にそこにはどんな体験が存在するのか。そんなことを意識しながらものづくりをしていきたいと感じさせられた。そして葛西さんの言葉にあった「作家と旅するような感覚。」この感覚も忘れずにクライアントと最高の旅をしたいと思う。

二つ目は、ものの見方。奥山くんは低音ボイスの良い声の持ち主で会話のテンポにも独特の膜を帯びているように感じる。一見、軽やかな青年に見えるのに、中には図太い芯を抱えているようなそんな感覚。そのたたずまいもすてきだが、選ぶ言葉はもっと魅力的だ。例えば、コミュニティを球体と表現し、人のオーラや雰囲気を波動という。言葉にできない感性をイメージで切り取って、それを他のものに例える。言葉一つで微妙なニュアンスが変わってくるのだ。デザイナーならごく一般的な表現かもしれないが、わたしにはとても新鮮だった。葛西さんも奥山くんを「雰囲気ふくめて言葉を醸す人」と言う。この言葉のチョイスもまたすてきじゃないか。

言葉をとても選んで相手に伝えていく奥山くん。言葉のパワーや影響について普段の私の軽い言葉を反省するとともに、もっと視覚的に表現すれば、言葉にならない思いを人に伝えられるのかもしれない。と感じた。この感覚をもらってから、普段目にしているものの見え方も変わってきている。既存に用意された言葉でさらりと片付けたくない感動や、思いは少しでも別の言葉で表現するようになった。些細な幸せにも気がつくようになり、その些細な幸せを噛みしめる言葉を探すようにもなった。詩集などに興味を持つようになったのもこの影響だろう。

奥山くんの写真はその写真だけで十分魅力的である。でも、わたしは奥山くんのマインドや感性を尊敬しているのだと思う。私の軸は結局、「人」でその人の魅力を表現しているモノにも興味を持つだけである。今後もわたしは奥山くんの考え方の部分に触れていきたいと思うし、自分と異なる道でなにかを極めている人には積極的に会っていきたい。自分の知らない世界がそこにはあり、新しい世界に自分がどんどんアップデートしていけるのなら最高の人生だ。私をアップデートする出会いがこの先もいっぱいあるのだろう。自分の人生が楽しみである。

自分の夢に生きる人、やっぱり大好きだ。

Have a good dayの魔法

「Have a good day.」

海外に行った時などに聞いたことがある人も居るだろうか。

この言葉は私のここ半年の本当に素敵だなと思う言葉。この言葉の後に続くのは

「You too.」

英語圏では、お店などで会計を済ませると当たり前のようにこの会話が繰り広げられる。直訳すると、「良い1日を過ごしてね。」「あなたもね。」といったところで、一時を過ごしたにすぎない人に対して、相手の楽しい1日を願ってあげられるなんて、とてつもなく素敵!と毎回胸が踊ってしまう。もちろん、日本でいう「おはよう」「いただきます」のような、ごく日常的な言葉なのは知っているが、こんな言葉が日常的なあいさつになっていること自体が素晴らしいなと思う。

この会話が好きすぎて、私が外国人を接客する時に、必ずドア先までお見送りし、「have a good day.」と声をかける。もちろんみんな笑顔で「You too!」と言ってくれる。その笑顔だけでその後の仕事も頑張れる。

この言葉にはいろんな含みがあるなと思う。単に「仕事頑張ってね。」や「ほどほどにね。」といった言葉もかけてもらえないよりは嬉しいものだが、相手のモチベーションはその時々によって違う。めちゃくちゃ頑張りたい時もあれば、今日は疲れてしまってるなという時も。その点、この言葉は万能で、素直にあなたにとって良い1日になるようにという意味。頑張りたい人は頑張ってね!と言われているように聞こえるし、ちょっとお疲れぎみの人にはリラックスしてね。という意味になる。これだけ含みのある言葉だからこそ、私の心にも刺さるのだろう。

この言葉、大切にしたいなと思う人や素敵な出会いだなと思う人には積極的にかけていきたいなと思うのだが、日本語ではなんて声をかければいいのだろう。お店なら、「こちらこそ!」とまず言ってみるといいのかもしれない。「ありがとうございましたー。」はみんな店員さんのマニュアルのように使われているし、声をかけやすい気がする。こちらこそだけだと、なんだか言葉足らずで言いづらい気がするが、「こちらこそ」と言ったら、枕詞のようにその後美味しかったです。とか可愛いものに出会えて嬉しいです。とか、一言添えられるような気がする。コンビニやスーパーとかだとちょっと難しいけど、ああいったスピードと正確性を求められる職場こそ、本当は声をかけてあげたい。せめて目を見てありがとうございます。は言うようにしよう。職場なら、今日も1日良い1日を過ごしましょう!とかでもいいのだろうか。なにか、「Have a good day.」ほどの軽さと威力を感じない…。いい言葉探しをしたいものだ。

世の中的によく言われていることではあるけれど、笑顔もこの言葉に匹敵する力を持っている。笑顔を向けられると自然と人は笑顔を返すし、お互いに穏やかな時間が流れる。これは接客していて本当に感じることで、満面の笑顔で接客すると無表情だった人も口角をあげる。試しに朝早い職場のメンバーに対してもやってみたところ、みんな少しだけでもテンションが上がる。自分が接客される立場の時も同じで、メニューをもらう、オーダーをするなんて何気ない業務的なやりとりも、笑顔で目を見てやりとりするだけで、スタッフの笑顔を引き出せる。相手が笑顔になると自分も嬉しくなる。手っ取り早くて、自分も周りもハッピーにできる方法。みんなにもオススメしたいし、自分自身もこれだけは最近自然と意識するようになってきた気がする。

たぶんこれは、一緒に過ごす人が変わったからで、今お世話になっている女性のマネージャーや外国人の職場の友達。普段一緒に過ごすピーターパンのような友達、長年私に寄り添ってくれている親友。この辺りの影響が大きいなと思う。本当に良い気づきだなと自分で思う。

少し前までマキコニクソンさんの本などを読んで、どうやったらHappyポジティブ思考になれるかすごく考えていたけど、環境が変わり、付き合う人が変わったら、そんなこと頭で考えなくても自然に手に入れられるようになった気がする。逆に今まで心地いいと感じていたはずの人間関係と距離を置きたくなったりしていて、知らぬ間に私自身が変わっていっているのだなと思う。そして変わりたいと環境を変えてきた自分には、愛情いっぱいのハグをあげたい。自分の毎日を諦めない姿勢は、私の大きな長所だと思う。自分に期待することを止めない姿勢はずっと貫いていきたい。

話が脱線したが、こんな背景もありながら私は「Have a good day.」「You too.」の会話を続ける。日本語でも同じような会話ができるように会話を意識する。Have a good dayの魔法に魅せられながら、みんなと幸せになっていきたい。

 

 

毎日のおしゃれ

最近毎日、オシャレをして外に出るようにしている。少し前までは、どうせ会社に行くだけだし、誰にも会わないし…と手を抜いていたのだが、7年ほど付き合った元彼と別れる際に言われたある言葉に反省したのがきっかけである。

「昔は手に届かないようなオシャレさんだったのに、今は平均点は必ず超えてくるけどオシャレじゃなくなった。」

どんな性格のことを言われるより一番ガーンと素直に反省させられたお言葉だった。自分は結構オシャレな人!と思いつつ、自分でも手を抜いて輝いてないなという自覚があったのは事実。誰かによく見られようとかそんな気持ちが少なくなってしまっていたのは自分でも気がついていたし、自分らしさや自分を大切にする気持ちもいつしか忘れてしまっていたのかもしれない。次の出会いのためにも毎日オシャレしよう!とこの日誓った。

そこからはまず雑誌漁りをはじめて自分の気に入ったコーディネートを写真に納める。自分にも似合いそうなスタイリストさんのインスタを逐一チェック。自分のパーソナルカラーや体型もチェックして、本当に似合う服装も研究。一度始めると元来好きなことだから楽しくて仕方なくなり、7年前の自分のように、毎日オシャレすることが楽しくてしょうがなくなった。

ここでふと気がついたことがある。私って付き合う人や好きになった人に染まりやすい。ってこと。相手が好きそうな服装をしたり、メイクをしたり、さすがに赤文字系を極めるのはタイプではなさすぎるのでしないにしても、系統は寄せていくのである。自分に自信がないし、なによりこの人!と思うと全力で尽くしてしまうから、これは私の愛すべき欠点だなと思う。

最近いろんなタイプの男の子と遊ぶようになって、全然合わないと思う子も中にはいる。そんなこの先縁のない人と会っているうちに彼氏を作らなきゃ!という焦りはどこかへ消え去っていった。むしろ、元彼はいろいろと趣味の合う人だったなと感謝の気持ちが起こる。復縁したいという話ではまったくなく、仮に趣味が違くても私も相手もお互いの感性や趣味をステキだな、もっと磨いてほしいなと思えるような関係を築かなければならないと学んだのだ。それが結局、感性や趣味が近いってことなのかもしれないけれど。

もともと、その人にしかない輝きがある人に私は惹かれやすい。自分に自信がないからこそ、その人と付き合う中でいいところを吸収したいのかもしれない。極端に言えば人を殺すことでその人の能力がもらえると思っているサイレーンの悪役の女性と一緒である。でもそれでは相手になんの刺激も与えられず、自分も成長したように感じられるだけで結局相手の七光りになってしまう。私は私のいいところを伸ばしていかなければダメなのだ。

付き合うならずーっと相手には輝いていてほしいってみんな思うはず。少なくとも私はそう思う。ずーっと大好きでいたいし、今まで知らなかった一面に出会い続けたい。それなら好きになった時のその人の感性や魅力を大切に育ててあげなきゃいけない。自分も、相手に依存せずに自分が一番美しいと思える自分を追求し続けなければいけない。自分が自立していれば、必要以上に相手に何かを求めることもなくなり、本当に自分に足りない部分を相手で補うような成長し続ける二人になれるのだ。

そのための第一歩が毎日のオシャレ。自分の感性を日々ファッションで表現して、大好きな自分でいられる行事。自分が好きな自分でいると毎日胸を張って歩けるし、仕事もポジティブな気持ちで行くことができる。ちょっと嫌なことがあっても、鏡に映る自分が好きであれば自然と笑顔になれる。私は笑顔の自分が好きなのだ。

さらに言えば、いままで休日のおしゃれだったワードローブが平日のおしゃれになっていくことで、休日のおしゃれはさらに一工夫加えようという気になってくる。キラキラの靴下や、新しいヘアアレンジ、スカーフ、バック、色×色のコーディネート…自然とオシャレレベルがあがっていく。今度の土日にはこれを着たいな。あーこの組み合わせもかわいいから早く明日にならないかな。なんて考える。なんて毎日目覚めるのが楽しいんだろう!と自分でも驚く。

私が大好きな私であるために、今日も明日もせっせとコーディネートをしていこう。